こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

心を入れ替えてもマトリョーシカであることに変わりはない

いままでの失敗をなかったことにはできないけど、悪いところを改めて、胸を張って生きていきたいと思いました。

 

まず、仕事を辞め、転職しました。

いびつで不完全な人間関係を捨てるため、そして、私を許してこれからもよろしくと言ってくれた夫と、夫の家族に誠意を示すためです。

 

そして、酒とたばこを絶ちました。

流されやすく、不安に負けてしまう私が、自分の弱さを許してしまう場をなくそうと思いました。

逃げ道を作るな、と言われ、それは私を崖の上に立たせるような言葉でしたので最初は抵抗がありましたが、真っ当に生きていくために必要なことだと判断しました。

 

いくら親として子どもを育てる責任があるといえど、私が生きていく意味はどこにも見出せません。

だけど、死ぬことはとても難しく、あと一歩のところでまた生きていくことになってしまいました。

 

自分の身と精神を保ち、正常に戻すために休むことが必要なのであれば、そしてその期間が明確で、経済的な余裕があるのであれば、その選択を取るべきだったかもしれません。

 

ですが、恥を晒しながらも生きていくのであれば、仕事をせずに、子育ての責任も放棄して、自分のためだけに時間とお金を使うのは、正しくないと思いましたし、自分のために言うと、さらに自己肯定感を下げることになると思いました。

 

なので、いままでよりも厳しい実力主義の環境に身を置くことにしました。

 

仕事をして成果を出し、社会のなかで、ちゃんと自分の頭と手足のみで立っていける能力を身につけようと、思いました。

 

このブログの過去の記事は、言い訳と自己弁護にあふれていて、読んでいて不快になりました。目を通してくださった皆様にもそのような思いをさせてしまったことを反省しています。

本当に、申し訳ありません。

 

背水の陣に身を置き、人と健全な関係性をつくろうとしていますが、目的を明確にし、意識を変えたといっても、いまの私がもっている性格を数ヶ月で変えることは難しく、いまでも人を疑う気持ちは常にあり、いつでも周りの人たちに品定めされているような気がして、怖いです。

 

今日は、小さなきっかけで身体中に黒いものが充満し、気付いたら呼吸が苦しくなっていました。

手足が震え、身体の力が抜けていくのを感じました。6月の退職後、はじめてのことでした。

 

全身が痺れ、身体からしゅわしゅわと炭酸の泡が立っているような感覚が20分ほど続きました。

 

夫と子どもたちはお風呂に入っていて、私は夫に気付かれたくない一心で隠れました。

 

家の外に出て、横になって深呼吸をし、ビニール袋で酸素を送り、余っていたリボトリールを2粒飲みました。

 

こうやってコントロールが効かなくなるのが改めて恐ろしいと思い、やっぱり、病院に行くこと、薬を使うことが必要なのかもしれないと思いました。

 

娘は人の気持ちに敏感で、繊細で、とても優しい子です。お風呂上がりに私の変化に気付いたようで、ママ大丈夫?と声をかけてくれました。でも私は、娘に心を開くことすらもためらいました。

 

それでも勇気を出して、ぎゅーってしてくれる?と言うと、眠そうになりながらも私を抱きしめて、トントンと背中を叩いてくれました。

 

私よりずっと小さな身体で、私の何倍もの愛と優しさを持った娘です。

 

こういう純粋な愛情がほしくて、それを8歳の幼い子どもにしか求められない自分の惨めさと、娘への感謝の気持ちで涙が止まらなくなりました。

 

背負うものがいくつかあって、私にとってそれらは難易度が高く、体積も大きく、すべてを収める容量が私にはなくて、うまく出し入れしながら、なんとか毎日をやり過ごしてきたように思います。

 

なんでこんなに苦しいのに、毎日を必死で生きていく必要があるんだろう、と常に思っています。

 

地球の歴史に比べたら人類の歴史などみじんこのようなもので、そのなかで私の一生なんて、偶然発生した気泡の一粒。一瞬形をつくってパチンと消えてしまうようなもの。

 

もしかしたら私たちの見ている世界の外側には、私たちの知り得ない大きな世界があって、地球も、太陽も月も惑星も、そのなかの人々も生き物も、宇宙人の子どもたちがおままごとに使ってる道具なんじゃないかと思うと、気が楽になると同時に生きていく理由が改めてわからなくなるのです。

 

外では、所属の部署で新しい仕事を立ち上げ、いろんな人に会って、人を繋ぎ、紹介し、紹介され、やったことのない業務を一から勉強し、ママ友ともケラケラ笑いながら行事を楽しむことができ、休みの日は誰かが遊びに誘ってくれて、コミュニケーション能力を評価され、あなたならできる、センスがあると言われる。

 

これらが事実としてあったとしても。

 

すべてが疑問なのです。この人たちが見ている私は、私じゃないと思うのです。人前でペラペラとそれっぽいことを理路整然と話す自分を、本当の私は全力で見下しています。ほんとうに許せない。ぜんぶ、偽物なんです。

 

何冊本を読んでも、どれだけ情報収集しても、何も身に付かなくて、仕事のセンスもなく、頭が悪い。妥協しても、成功者の真似をすることすらままならず、先頭に立って物事を進める推進力もイニシアチブもなく、同僚の発言に一喜一憂し、自分から発信するときは不安に押しつぶされそうになり、リアクションを見るのが怖くしばらくチャットを開けず、いつもびくびくしている。

 

こんな私がなぜ褒められるんですか?騙しています。もしくは私が着ている着ぐるみを本当の私だと思っているのです。いつ背中のチャックに気付かれるのだろうと、ずっと怯えています。

 

頭のいい、勘のいい人たちを騙しているのがさらに恐ろしいです。たくさんの人を見てきて、きっと目を見たら本性まで見透かすことができる人たちです。その人たちを騙している。

 

だから目を合わせるのが怖く、でもそらし続けたらバレるから、あなたに興味があります・私はこれがやりたいです、という気持ちを100%両目に宿らせてじっと目を見て話すんです。

私が一瞬でも不安な表情をしたらバレる。

 

だから特に、目の奥に不安が見え隠れする人はいちばん怖いです。こういう人たちは私のように隠したいものがあるか、自信がないか、私を疑っているかのいずれかなので、それに気付かないフリをして、自分も同じような不安を持っていると答えてしまわないように、すごく気を張ります。

 

相手の不安に煽られて、自分の不安が芽を出さないよう、心を開き、その時思っている本心を話します。本心を話す行為は私にとってすごくリスクがあることですが、相手を受け入れているサインを出すために、そしてここに書いているような根本の不安を隠すためにやります。

 

久しぶりにこのブログを書いてみて、心が解放されました。仕事で書いている文章と違って、こんなにもすらすらと言葉が出てくる。

 

読んでいただき、ありがとうございました。